『怒涛の鯨のタタキ』
2014年10月の犬バカ愛日記みゃんこ日記


〔トップページへ〕 〔犬バカ愛日記目次ページへ〕



      
2014/10/02(木)
「いつかある日」



これは西の方から見た御嶽山。

稲沢市に住んでいた頃、うちから御嶽山が見えた。
有名な山がうちから見えるんだ、と、少し誇らしかった。

神様の山は天に一番近い。
天に召された方々は、大事な人たちを見守っていてくれる。





「いつかある日」
深田久弥作詞(ロジェ・デュプロ原詞)・西前四郎作曲

いつかある日 山で死んだら
古い山の友よ 伝えてくれ

母親には 安らかだったと
男らしく死んだと 父親には

伝えてくれ いとしい妻に
俺が帰らなくても 生きて行けと

息子たちに 俺の踏み跡が
故郷の岩山に 残っていると

友よ山に 小さなケルンを
積んで墓にしてくれ ピッケル立てて

俺のケルン 美しいフェイスに
朝の陽が輝く 広いテラス

友に贈る 俺のハンマー
ピトンの歌声を 聞かせてくれ




      
2014/10/03(金)
ラッキーナンバー


今日の歩数計の表示が、5555歩。

5555!

GO! GO! GO! GO!

「5」は私のラッキーナンバーなのだそうだ。




      
2014/10/04(土)
ついに時代の波に乗る? & 今日も自画像の日


郵便局でもらった小さな貯金箱。
これは家族共通の食費用お財布から出た500円玉貯金用。

100円玉が33枚も入っていたので、34,300円也。
全部500円玉だったらば5万円分くらいは入りそうだ。

これで、両親用10インチタブレット端末を買おう。

「いい加減、時代の波に乗りなさい」とか、
「〇〇さんだってやってるのに」とか、
両親に、しばらく前から責められていたので。
わからないことだらけで、メル友さんに質問攻撃、ここしばらく迷っていた。



金山のリメディアルセラピーで、
あちこちほぐしてもらったあと、
名古屋駅前のヤマダ電機に寄った。
さっさと必要なものを買って、設定等を依頼。後日受け取ることにしてさっさと帰宅。

マッサージ後は、少し疲れるのだ。

のんびりしつつ、今日も自画像描き。
前回の正面画像は前かがみだったが、
今日は姿勢を正してみた。

自画像で顔のたるみに気づいて以来、毎朝晩、田中流造顔マッサージ(もどきを続行中。

今日の自画像には、体が楽になったほんのり感が出ている、気がする。




   
2014/10/05(日)
自画像を完成できなくて思ういろいろ




休みの日には、自画像を描く。
輪郭、骨格を描いて、肉を付ける。
目を描く。

目はその人を表す、心を表す、・・・というのは当たっていない。

目は人をだますと思う。
特に女性は、化粧をするから、だませる。

その人らしさは、どこに現れるのだろうか。

今日も描き始めたが、どうしても完成できなかった。
なぜ描けないのか考えた。
自分らしさはどこにあるか探した。

どうやら、目ではないのだと思い当たった。

肌ではなかろうか。
肌の張りや色つやには年齢が出るし、体調も気分も出るようだ。
心の張りや輝き、夢や希望も、肌に現れるのではないだろうか。

ほんの数枚ばかり自画像を描いてみて、
私が感じているのはそんなことである。




   
2014/10/06(月)
こんな本を読んだ。『朝鮮総督府官吏 最後の証言』


『朝鮮総督府官吏 最後の証言』
(桜の花出版編集部)


平成26年3月現在、99歳の西川清氏。

彼は、1933年から1945年の間、朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)江原道(こうげんどう)行政官だった。

写真その他の資料も多く掲載され、
西川氏へのインタビューで構成されている。

事実が淡々と穏やかに述べられており、説得力があり、感動的である。読後感を一言で言えば、「穏やか」。

事実を事実として認めることもできず、
現実から目をそらし、過去をゆがめ、未来を絶望の色に染めようとしてきたのではないか。

誰が?
マスメディアが。私たちが。

「じいちゃんがこんな話してたっけ」
「お父さんからこんな話、聞いたなぁ」
何度もうなずきながら読んだ。

昔ながらの普通の家庭で育った、普通の価値観の日本人なら、素直な気持ちですんなり読める。

年寄りの話には無駄はない。




   
2014/10/08(水)
こんな本を読んだ。『追跡 平頂山事件』(田辺敏雄著)


『追跡 平頂山事件』
(田辺敏雄著)


昭和7年9月、
満州撫順炭鉱平頂山村にて、日本軍守備隊による住民皆殺し事件が起きたという。

関係者の遺族が、その事件の真相を追跡し、ずさんな裁判と報道のあり方を糾弾した本だ。

真相は、大新聞の有名記者(本多勝一の『中国の旅』)や有名作家(沢地久枝の『もうひとつの満州』)によってではなく、理詰めに誠実に事実を追いかけた一般人によって明らかにされた。



この本の最後の方に、本多勝一記者の手紙が掲載されているので引用する。朝日新聞に掲載された、本多勝一記者の『中国の旅』は、平頂山、万人坑、南京、三光政策の4部に分かれて掲載され、単行本となり、反響が大きかった。

著者の本多勝一氏は単行本のあとがきで、「これまでにさまざまなルポルタージュを書いてきましたが、今回のルポほど深刻な反響が返ってきたことは、予想されたこととはいえ、初めてでした。本書(『中国の旅』)は、中国側の視点による中国側関係者の取材にもとづいて報告していますので、事実に対する日本側関係者の資料あるいは反証があれば、できるだけつき合わせてみたいものです。報告中に出てくる当人を含めて、これらの事件に関係した方の証言を歓迎します」と書いている。

久野健太郎氏は反証として自著を送り抗議したひとりである。本多記者の久野氏に宛てた返信がある。1986年3月9日の日付になっている。「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか。中国側との間で何らかの合意点が見つかったときには、それをまた本で採用したいと思っております」




事実は隠される。捏造が報道され、新聞が売れる。嘘がうそを呼び、恥を忘れて、金儲けする。朝日新聞は、醜い。





   
2014/10/09(木)
ついに読み終えた。『To Kill a Mockingbird』(Harper Lee 著)


『To Kill a Mockingbird』
(Harper Lee 著)


一度、50ページほどで挫折した本。376ページ。
おもしろくなくて、眠くて。

文体は簡単なのに、知らない単語が多いせいかも、と、単語ノートを作りながら再挑戦することにした。

アメリカ南部の子供の日常なんて、退屈・・・と、また挫折しそうになった。

しかし、第2部に入ったらおもしろくなってきた。
裁判のシーンは、とてもおもしろく、どんどんページが進んだ。

題名の「マネシツグミを殺すこと」は、文中に二度出てくる。

「青カケスなら撃ってもいいよ、撃てるんならね。でも、マネシツグミを撃って殺すのは罪だ」と、主人公の女の子の父親が言う。父親はジェントルマンで弁護士だ。

もう一度出てくるのは、最後の方。女の子が父親に言う。「わかってるわ。マネシツグミを撃つ、って感じの話よね」と。

美しい鳴き声のマネシツグミを撃つのは罪。
罪のないものに罪を着せ殺すのは罪。・・・ということなんだろうな。

これは多読によいと聞いたが、言い回しが凝っていたり、なかなか深いところがあったりして、ちょっと大変だと思う。アメリカの現実と理想を描いた、模範的な本だ。




      
2014/10/13(月)体育の日
こんな3連休だった。


画像は全部いただき物

10日金曜日仕事帰りに、鍼灸院。
仕事中、「くっそぉ〜」と思ったとたんに、
きゅ〜〜んと腰が痛くなった。
あら?心因性の腰痛?

そんな疲れが尾を引いて、土曜日は朝から嫌な頭痛が。
食欲ゼロ。痛み止めも効かない感じ。偏頭痛か。しめつけられる痛みに、一日中、トロトロ眠って過ごした。
このワンちゃんみたいに。

夕食は、「鯛のアラ汁」を母にリクエスト。食後のりんごがおいしかった。



日曜日、まだ顔がむくんでいた。
べったりと貼り付く頭痛はそのまま。

昼、アラ汁で卵雑炊を仕立てる。
食欲なくても、うまい。

午後、台風に備えて、庭のプランターや鉢植えを車庫に避難させる。
夕食は、豚肉のつけ焼き、キノコの味噌汁、ゆで野菜、地味な食卓を整えた。
ゆっくり食べていたら、なんだか元気が出てきた。

このトラさんみたいなのったりした一日。



二日続けて、人殺しの謀議だとか、嘘を付く、とか、気持ちの悪い夢を見ていたが、ま、体調が悪かった、ってことで不問としよう。
今朝、ほとんど頭痛は消えていた。

朝、現在の「円安と円高」の仕組みを説明するCDを聞いたり、それをまとめたり、ついでに、書斎と廊下と台所を掃除した。

昼は、コーンスープとチャーハン。唐辛子味噌で味付けしたら、うまいじゃないか。

おからパウダーと小麦粉でクッキーを作って、焼けるのを待っていたら、ちょいとした来客。
空き家になっていたお隣が資産処分したいと言う話。

ちょうどこの子猫ちゃんのように、元気が沸いた連休最終日。




   
2014/10/18(土)
10.1インチタブレット


昨日、「設定終わりました」とヤマダ電機から連絡。

10月4日に購入して、本日ようやく手元に到着。

10月4日:設定とウィルスソフトのインストールを依頼して、ドトールで読書しながら2時間後の仕上がりを待った。

しかし、「まさかの初期不良で・・・」と連絡があり、取り寄せてもらうことになった。

数日後、2台目となるタブレットが到着したものの、
「モヤモヤなホコリが多すぎるので」と連絡があり、再び取り寄せてくれることになった。

さらに数日後、3台目となるタブレット到着したものの、
「できました。動作確認お願いします」の連絡で行ったところが、
箱から出てきたタブレットの画面に、ありえない傷が。目立つ傷が・・・。
サポートの人も私もほぼ同時に気づき、結局、再び取り寄せしてもらうことになった。

そしてようやく、4台目の正直。今度は大丈夫そうだ。

帰宅後、無線LANルーターを、NTTさんから貸与のルーターにつなぎ、ちょいと設定して、めでたくタブレット生活が始まった。

無事に、両親のおもちゃになりますように。




   
2014/10/19(日)
かゆくなる季節、ステロイド注意。(閲覧注意画像あり)


本日、閲覧注意画像あります。

気の弱い方、ステロイド軟こう使用中の方、見ない方がいいかも・・・。

画像はアル。
一日2〜3回の散歩の後には必ずこうしてグルーミング。
オレンジエックスを溶かしたお湯で、全身ごしごし、足の裏もごしごし。アルもお手伝いして、自分でペロペロ。


もう歩けなくなっていたけれど、幸せそうなワンコで、私たちも幸せだったよ。



我が家で一番強いのは、母。
その証拠がこれ。

ステロイド離脱時の壮絶な皮膚症状。

2001年〜2004年(平成13年〜16年12月)
ポツポツとした脚や腕の痒みを、皮膚科処方の「メインベート軟膏」で対処していた。

「治りませんねぇ。これは1週間以上続けて塗ってはいけないんだけどねぇ」
そういいながら、医者はまた同じ強い塗り薬を処方し、結局、母は1年以上塗り続けた。

平成16年11月頃には、かゆみで夜も眠れなくなっていた。1時間以上続けて眠ることさえできなくなった。一時間後にはもう別の場所に出るようになっていた。

ステロイドは治す薬じゃなかったんだ。抑えていただけだ。抑えきれなくなっているんだ!!

一時的に押さえる効果さえなくなり、ステロイド軟膏を切ることを決意。ステロイド離脱のリバウンドは激烈で、人生を壊される、自ら命を絶つこともあると聞いたが、それでもステロイド離脱を選んだ。年末に、漢方薬局で、せんじ薬を調合してもらう。

2004年〜2005年(平成16年12月〜17年6月)
ステロイドを切って、漢方のせんじ薬に切り替えてすぐ、首から下全身に湿疹が広がり腫れあがる。ステロイド軟こうを塗った覚えのない部分まで、両手のひらと足の裏と乳房をのぞく全身に広がった。ジュクジュクと体液がにじみ出る。 一番ひどいのは、腕・脚・みぞおちから下の体幹部(腹部分のみ)。背中は、体の前側ほどひどくない。浸出液は固まり、かさぶたというより鎧のように体を覆う。

かさぶた状のものをそのままにしておくと、体が膨れ上がり、母が「苦しい」と言う。

アトポスの蓬水(ほうすい)ローションをバシャバシャと使い、かさぶたをふやかして取ると「あ〜楽、息が出来るよ」と。数日後には「ローション、冷たい。寒いから、ふやかさずそのまま取っちゃって」と。真冬だったので。「取っちゃえ、取っちゃえ!」とバリバリはがした。「痛くないよ」と母。保湿にエバメールゲルや紫雲膏などを塗り、包帯を巻く。その包帯が、翌朝には浸出液で黄色くぐっしょり濡れていた。夜中にもひとりで包帯を巻きなおしていたらしい。その都度、パジャマも着替えなければならなかった。

画像は、このかさぶたをはがして手当て中のもの。これでも「少し良くなったね☆」と喜んでいた頃のもの。

このひどい状態は、4ヶ月ほどたった5月下旬頃から、嘘のように改善し、いったんはスカートがはけるようになった。

漢方薬は、胃腸への負担が大きく感じ、何度調合しなおしてもらっても胃が重く食べられなくなり、8月頃に止めざるを得なくなった。

保湿剤は蓬水ローション、紫雲膏やエバメールゲル。感染を恐れ、ジュクジュクした部分に抗生物質の「ドルマイシン軟膏」を薬局で買って塗布。




平成17年5月、左腕に突然の水ぶくれが一直線に並ぶ。帯状疱疹を発症していた。 「またもリバウンドか」と思い込み、皮膚科に行かず自然治癒。2週間後に、激痛のあまりに行った整形外科で帯状疱疹だったと判明。この後、長く、帯状疱疹後神経痛に悩まされることになる。

2005年〜2007年(平成17年6月〜19年3月)
相変わらず、痛みと痒みでほとんど眠れず、鍼灸治療に週二回通う。 痛みも痒みも消えないが、平成17年10月から年末までの間は、夜、3時間ほど眠れるようになる。お灸の熱さに、皮膚が耐えられなくなる。

2006年(平成18年6月)
再び両脚に湿疹。両脚、両腕に広がり、年末には顔の左半分にも出る。 背中など体幹部分にも出るが、今度は茶色で、赤みはない。痒みは強い。

漢方は体質改善とのイメージがあるが、実は、毒を体の奥深くに沈み込ませるもので、毒が消えるわけではなく、再びその毒が出て来たときは、もっと大変でなかなか消えない・・・と知ったのは、漢方薬を止めて数年後のことだった。

2007年〜2013年(平成19年3月〜平成25年夏)
オステオパシー、マイオセラピー、カイロ、鍼を組み合わせて施術する治療院に変更。帯状疱疹後神経痛は、最初の施術で消えた。

2007年〜(平成19年4月〜):アトポスの蓬水は四輝水にパワーアップ。四輝水は保湿用ローションで、全身に使用。食事も一時は玄米菜食に徹底。母の年齢を考え、次第に玄米菜食にこだわらず、ヨーグルトなどの発酵食品で腸内環境を整える食生活に変えていった。

サプリには頼らない。極力、錠剤の形をしたものは取らない。




現在の皮膚症状は、膝から下の両脚に、ちょっと出ている程度。今までの闘いを知らない人は、「うわ、何それ」とのけぞる状態だが、母にしてみれば、「こんなもん楽勝〜」レベル。他の部分は、何もなかったかのように、色白のきめ細かなつやのある肌を取り戻している。手入れは、顔も体も、アトポスの四輝水ローションとカシー化粧品のマニュアンハンドクリームを利用。

鍼灸もオステオパシーにも頼らず、現在は、「朝までぐっすり眠ったよ。昨日は寝れなかったけど!」
「カーブスに週3回!」(カーブスとは女性専用筋トレジムである)
「ヨーグルト大好き!肉とチーズ、果物好き〜!」
「何が体にいいの?きれいになるの?」
「振り付けを一発で覚えられるうちはまだまだやるよ、日本舞踊!」な生活。週に3日は着物姿で教えたり習ったりの精力的な行動派生活。

そして母の信念、「このかゆいやつ、私、墓まで持っていくから!」

母、すごい。


ステロイドは、「かゆいところに〜」気楽に塗るものではない。
湿疹などの皮膚症状は、「皮膚科医に行って」治るものではない。

医者(特に皮膚科)なんか、で〜〜っ嫌いだっ!と私が吠える理由はここにある。





   
2014/10/22(水)
人はちょいと引くらしいけど、言わせてもらおう


「犬バカ日記じゃなかったの?」
「犬のことだけのほほんと書いてる日記でしょ?」
「なんでウヨクみたいなこと書くの?そういう人なの?」
「ドン引きしちゃうわ、いやだわ、みゃんこさんってば」

お花畑から声が聞こえる気がするが、お花畑にも蜂がいるんだよ、気をつけて。


これは、週刊新潮、今年の9月25日号のモノクログラビアページ。

朝日新聞のスター記者本多勝一が、写真の「誤用」を認めたんだと。



本多勝一の著書は多い。

高校の図書室にもあった。

図書室の蔵書読破の野望をもっていた私は、
本多勝一の著書も数冊読んだ。


印象は、特にない。

多感な少女でなくてよかった。
高校時代に一番印象に残ったのは、『生存者』
アンデス山中に墜落した飛行機の、生存者たちのドキュメント。



もちろん、図書室の全蔵書読破はできなかった。
根性が足りなかったな・・・。




ほのぼのとした写真だと思うが?

実際、野良仕事の帰り道、住民を兵隊さんが護衛しているものらしい。

この写真に、「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち」とキャプションをつけたのが本多勝一。

10月8日の日記で紹介した『追跡 平頂山事件』の中の文章と同じく、ここでも「中国の言うとおり書いただけ」のスタンスだったようだ。

この写真の『誤用』は認めたものの、「南京事件自体が否定されることにならない」と言ってる。
まだそんなこと言ってる。
表現の自由って、こういうことですか?
嘘も表現方法のひとつですか?

かつてのスター記者、伝説の記者本多勝一、82歳。
まだまだお若い、82歳。全面的に間違いを認めるつもりなど、きっとないだろうな。







GHQの言いなりになって、独立してからも勝手に報道規制し続けて、
他国の利益のために嘘を書き続けて、日本人をおとしめて、
自分だけが真実を知ってるみたいないい子ぶって、記事書いて、高給とって、長生きして。

自慰行為、いやSM? みっともなくて、恥ずかしくて生きていられないだろうに。






   
2014/10/23(木)
こんな本を読んだ。『The Alchemist』


『The Alchemist』
(PAULO COELHO 著)


『To Kill a Mockingbird』で時間を取ってしまったから、スピードアップのためにこの本を選択。

題名は「錬金術師」。

鉛を金に変える魔術師、何でも出来る魔術師。

この本は、世界的ベストセラーで、56か国語で翻訳出版。
日本語訳だと、『夢を旅した少年』という題名がついているようだ。

その題名は・・・なんか違う。

冒険活劇な部分も、ドキドキハラハラも何度も出てきて、映画になりそうだが、映画化はされていない。映画にする権利を著者が買い戻した経緯があるようだ。

錬金術師になることができる人もいるよ、それがその人の「パーソナルレジェンド」ならば。
風になることだってできる少年でも、錬金術師になることはできない。それは彼の「パーソナルレジェンド」ではないから。
君の夢は君だけのもの。真剣に願えばかなえられる。努力を続けたまえ。

夢のある子どもよりも、諦めかけた大人が読む本だろう。

「もう少しがんばろう」「もう少しだけ自分に誠実になろう」とまた一歩を踏み出すために。

英文は簡単。冒険活劇というよりは、精神世界への静かな瞑想、無音の世界を歩き続けるような、広い空を眺め続けるような、永遠の旅のような気がする本だった。




   
2014/10/26(日)
インパール作戦の記事から


今朝の日経新聞。

インパール作戦とはなんぞや。

この記事には、インパール作戦の説明はなく、コヒマで日本とイギリスが闘ったということがわかるだけだ。

一般に、今日の日本では、インパール作戦は無謀極まりない愚行であって、多くの日本兵が「無駄死に」したとみなされている。日本軍が敗走して、屍をさらした山中の道が「白骨街道」と呼ばれて非難されている。

インパール作戦とは・・・、1944年3月、日本軍はINA(インド国民軍)とともに、インド国内に攻め込んだインパール作戦を展開。

食料弾薬の補給が続かず、6月には占領したコヒマを放棄し、総崩れになって退却した。


インド国民軍とは何ぞや。

日本の江戸時代末期、1858年、インドでは反イギリス民族闘争である「セポイの乱」が起きた。

1877年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立。ビクトリア女王が「インド皇帝」として即位。

1897年に名家に生まれたチャンドラ・ボースは、今でも「ネタージ(偉大な指導者)」と呼ばれ、生誕地のベンガル地方で英雄として崇められている。

1942年、インドで「八月事件」が起きた。
「イギリスよ、出て行け」という国民会議派の決議に対して、全土にわたって、反英デモが挙行された。
イギリスはスピットファイアー戦闘機を飛ばして、上空から群集に機銃掃射を加え、容赦なく弾圧した。死者が940人、逮捕者は6万人にのぼった。

この頃、日本は、インド独立を願うチャンドラ・ボース支援を決定。ドイツに支援を断られていたボースは東京に到着し、1943年5月、日比谷公会堂で演説をした。

1943年10月、ボースを首班とした自由インド仮政府が樹立。INA(インド国民軍)は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指して、「チャロ、チャロ、デリー!(行け、行け、デリーへ)」と大書された横断幕を掲げて進軍した。




自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告した。

1943年11月、東京で大東亜会議が開催された。
日本、満州国、中国南京政権、フィリピン、ビルマ、タイ、インドの首脳が一堂に会した。人類の長い歴史において、有色人種によって行われた最初のサミットとなった。人類に人種平等をもたらして出発点となった。

この大東亜会議を「日本軍部が占領地の傀儡(かいらい)を集めて日本国内向けに宣伝のために行った会議だった」と、現在の日本の学者は唱えている。

1944年11月、ボースは再来日したが、状況は一変していた。3月から展開したインパール作戦は、6月にはコヒマから総崩れで退却していた。
7月には、サイパン島陥落。9月に、グアム島などの島々を失った。

ボースは日比谷公会堂で再度講演した。
「アジアに住むインド人は、人的、物的資源を総動員して日本と生死を共にする」と。
日本なしにはアジアの解放はなかった。

1945年、日本は降伏したがボースは敗れなかった。INAの残存兵力等をデリーを目指して進撃する計画を立てた。彼は、8月18日に飛行機の事故で重傷を負い死亡する。

イギリスは、INA将校たちをイギリスへの反逆罪で裁いた。将校たちから、ヒンズー教徒、イスラム教徒、シーク教徒を一人ずつ選んで、軍事裁判の被告席に座らせた。
インドの三大宗教だ。それぞれの代表の三人の将校は、インドそのものを裁く象徴だった。

1945年11月5日、裁判が始まった。当然、自然発生的に、不法な裁判を即時停止することなどを求める運動が起こった。
日本の証人である沢田前ビルマ大使が「INAが日本の手先で、日本軍によって強制されたと主張して罪を軽くする方向にもっていくのが良策だと思う」と提案した。

インド側全員が憤って、「インド人を侮らないでほしい。INAは日本軍と対等な立場で、共同作戦を行った独立軍だった。日本軍の傀儡ではけっしてなかった。そのようなことを、絶対に言ってほしくない。その結果として被告全員が死刑となっても、インド国民に悔いはない」と口々に言った。

抗議行動がインド全土にたちまち拡大した。イギリスはどうにも対応のしようがなくなり、1946年1月3日に、被告への刑の執行停止を発表せざるをえなくなった。

それでもイギリスは「イギリス軍に対する拷問、殺人の非人道的犯罪について、法に基づいて裁く」と発表した。

抗議デモが各地で頻発し、民衆に続いてインド将兵が立ち上がり、イギリス軍と銃撃戦を交えるまでに発展した。

2月7日、ニューデリーで「対日戦勝祝賀パレード」をイギリスが計画したが、当日、ニューデリーでは、全戸に弔旗が揚げられ、商店も工場も学校もすべて休みとなり、数万人の抗議デモが行われた。この時のニュース映像をみると、デモ隊の中に、手製の日章旗を振っている者が何人かあった。

当時の日本は、アメリカの占領下にあり、報道にも厳重な検閲が行われていたから、いっさい報じられることはなかった。

1947年8月15日、インドはついに独立を達成した。




上記の文章は、この本から取ったものだ。

『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』
(ペリーが種を蒔き、そしてマッカーサーが収穫した)


国際政治は非情である。
そして、今の日本は、勝手に続けている報道規制のもと、何も知らず考えずに、他人任せの幸せのぬるま湯につかっている。

他人に守ってもらっていながら「平和を愛する」とは、無責任でずうずうしい。

にせものの平和主義だ。

日本は、1952年に独立し、主権を回復し、国際社会にも復帰したあの時に、憲法を改正し、まともな国家になるべきだった。日本は経済復興を優先した。

当時は、全メディアが、朝日新聞でさえ「憲法改正!」を唱道したという。
ちなみに、戦争中の朝日新聞は、軍国主義をあおり、大変なナチス・ドイツ礼賛ぶりだった。昭和7年に、ドイツ特派員が「ハイル・ヒットラー!」の記事を寄せている。

100年に一度しかないチャンスを日本は逃したのだ。
インドは自尊心を持って戦い抜いて独立した。日本は、いつのまにか自尊心を失い、一個の国であろうとすることが悪であるかのようにマスメディアが叩く国になっている。

もう遅いのだろうか。次のチャンスはいつ来るのだろうか。今、そのチャンスに向かっているのだろうか。






          
2014/10/29(水)
この木、何の木?


いつものように甚目寺観音まで散歩した父。

「どんぐりだ!どんぐりだ!」
・・・と、子ども達とその母親たちが拾っていたんだと。

「これはシイの木だねぇ・・・
「だから、これはシイの実、乾煎りしたりゆでたりして食べられるよ」

山里育ちの父は教えて、
自分でも拾ってきたのだそうだ。

よく食べたものだ、と懐かしげ。

食べてみたら、香り高く、ほんのり甘い。
じゅうぶんにおいしかった。




← いただきもの画像。

金沢のしいのき迎賓館だそうだ。


♪この木何の木、気になる木♪

椎の木は大木になる。
椎の木に生えるキノコが、シイタケ。

椎の実は、昔から大事な食料にもなった。

今年はドングリが不作で、岐阜の山の熊たちはガリガリにやせているそうだ。
里に下りてきて、駆除されてしまうんだろうな。


この椎の実、山には生らないんだろうか。
必要な者のところに、うまく行き渡れば、野生動物もひもじい思いをしなくてすむのだろうに。






             
2014/10/30(木)
こんな時、どう思う?


先日、地元のスーパーのレジ待ちで。

私の前の人の足元が、このスニーカーだった。
カンペールの白のスニーカー。

私、それ持ってる!!
というか、2ヶ月前まで持ってた!!

私のと同じような汚れ具合だった。
この人も6年前に買ったのかしら?

いやだ〜、かぶらなくてよかった。




つい先日、となりの駅から乗り込んだ人が、
このシャツを着ていた。

ユニクロの黒白チェックのシャツ。

ユニクロのチェックぽくないから、
人とかぶらないかな、と思って去年購入。

今日もひとり、また別の駅で目撃。

いやぁ、かぶらなくてよかった。




これ、1996年の雅子妃。
来日したベルギー王妃をお出迎え。

色もデザインもかぶってるよ!

状況を自分に置き換えて想像してみる。

想像その1。初めての御宅に訪問したら、そこの奥さんがそっくり同じ服を着て、ニコニコお出迎え・・・

想像その2。家の外に出たら、近所の奥さんが自分と同じ格好をしてつきまとってくる・・・

怖い。恥ずかしい。腹がたつ。嫌がらせかしら。危ない人かしら。かかわりあいたくないわ。・・・・と。




これも、雅子妃。
イギリスのダイアナ妃をお出迎え。

これもかぶってるよ!

ニコニコ嬉しそうに出迎えてるけど、ダイアナさん、どういう気持ちだっただろうか。

昨日、オランダの王妃をお出迎えした時も、色がかぶってた。

とても嬉しそうに出迎えていた。
めちゃめちゃハイテンションで、はしゃいでいた。

ひょっとしたら、「おそろいね!アタシたち、仲良しね!」の感覚かも。
小学生の女の子がよくやるような。
昭和の時代のバカップルのおそろいポロシャツペアルックのような。

雅子妃には、何の悪気もないのかもしれない。
ただ、空気が読めなくて、大人になれなくて、人の忠告も聞けないわがままな人なだけなのかもしれない。

立場上、それはダメでしょ、・・・ってこともわからないのかもしれない。病気だったらわからないと思う。

アスペルガーとか自閉症とか、坑ウツ剤の副作用とか。




「これ、変だよ!」と言ったマスコミはあるだろうか?

晩餐会でのオランダ国王のスピーチの反日性に言及したマスコミはあるだろうか?

オランダのしてきたことを検証した上での「日蘭の深い絆〜」なのか?

「飾り窓の女」を知らないのか?

公務えり好みの雅子妃を批判したマスコミはあるだろうか?

言いたい事がないか、あっても言えないかのような報道ばかりだったと思う。せいぜいスルーするくらいが意思表示と思われる局もあったが。

言論統制がまかり通っているかのような気持ちの悪い報道に、そして、晩餐会での天皇陛下のスピーチ内容(宮内庁が書いたのか?)にも、深く心が沈んでしまった「11年ぶり〜」騒動の二日間であった。





他の月分も読んでね☆〔日記目次へ〕